危険な映画『セッション』
2016年2月23日(火)
孤独が友達、というような男に憧れる。他人からの承認など求める事無く自分の信じる道をゆくような、回りからは変人扱いをされているにもかかわらず、それにすら気づかないほどの集中力で時間を過ごすような男に。
カウンターで常連さん達にはよく語る話だが、俺は”オタク”と呼ばれる人を尊敬する。世の中の価値観で物事を計る事のできない不器用な人を見るにつけ、「もっとラクに生きろよ」とクチにしながらも、実のトコロ俺にはそこに辿りつけないコンプレックスがある。
映画『セッション』を観た。
前評判からして、確実にオレ好みとはわかっていたが最高だった。
ジャズ映画では無い、スポ根系映画でも無い。「あっち行っちゃった系」といえる映画だ。
一流のドラマーを目指す主人公の青年が鬼教官の理不尽な暴力や罵詈雑言のシゴキに耐えながら腕を磨く。そして磨きながら、一般的でいうところではない「成長」をしていく・・・。途中には彼女が出来たり、イトコと比較されたりでイヤな思いをしたりもする、普通の「逆境を乗り越える成長モノ映画」とも思えるのだが。
鬼教官が生徒の死を悼み、涙するシーンがある。この映画の中で鬼教官が唯一「人間らしさ」のようなものを見せるシーンだ(後半、意味が変わってくるが)。しかし映画始まって1時間が過ぎたこのシーンの時、すでに主人公は「あっちに行き始めて」いる。
「そんな話はどうでもイイから早くレッスンしましょうや」と、同窓生の死など意に介さない。
彼の中にあるのは「最高のドラマーになる事」だけ。もはやドラムオタクどころではない。
悪魔に魂を売り渡し、音楽のためなら何も要らないという姿は、男なら誰でも多少は憧れるのではなかろうか。使い古された言葉で「努力は好きには勝てない」というようなものがある。いくら頑張ったって、頑張ってるうちはダメなのだ。楽しんでやっている奴には勝てないという意味なんだろうけど、そんな言葉が薄ら寒い。「どちらにせよ、狂った奴には勝てない」が正解だ。
カミサンや子どものせいにして恥ずかしながらも器用に生きているつもりだったが、この映画に感が動してしまったという事はつまり、俺もあっち行っちゃう可能性があるって事か。
望むところだわ。