善良な家風、か。
2022年8月29日(月)
朝5時半。
長女のお弁当つくりのための大葉をもらおうと、オフクロの畑に。なんぼでもあるな・・・。豪勢に大葉が使える。
それにしても、久しぶりに「寒い」。
明け方は布団を被ったし、もうTシャツ短パンでは朝の動きが鈍る。朝食には温かいにゅうめんを拵えた。
キッチンに降りてきた三女が、「寒い〜!このまま毛布持って『学校に行きたいわ〜』」。
・・・学校に行きたい?
「言葉のあや」というヤツではある。
だから三女のこの発言に深い意味などまるでないのだが、一応は「学校に行きたい」という音声情報があった。
一喜一憂してはならないが、「一喜」くらいはしてもイイじゃないか。
ランチ、大忙し。誠にありがとうございました。
最近は14時以降でもお客様にお越しいただいている。
カミサンは「いよいよ営業時間の抜本的な見直しが必要」と言っていたが、たしかにそうだ。
その分夜はおヒマ。
終わり際にゴッドハンドかっちゃんが来てくれて、少々おしゃべり。
片付けてリビングに戻ると、三女が「今日も漢字のお勉強したいんだけど」と言うではないか。漢検に燃えているんだな。
実はパパの方でも、ネットでダウンロードできるまた別の「漢検」の過去問題(合法)を見つけておいた。新たなチャレンジ。
結果はやはり芳しくはなかった。
しかし、「這い上がる事こそが喜びと知る」。それが今回の漢検の真のミッションだ。
なんだって最初は出来ない方がイイ。そんな風に今のパパ自身は思っている。
しかしそれがなんであれ、「出来ない」というのは子供時代にとってみればそれは辛い現実。
かけっこが遅い、九九が覚えられない。パパも「出来ないだらけ」の子供であったから知っている。
でもだからこそ、「出来る喜び」と「乗り越える喜び」を比べるならば、間違えなく「乗り越える喜び」の方が大きいと断言できる。
さらにもう少し願わせてもらうなら、実は「乗り越える」事もさほど重要ではない。
「乗り越えられなかったけど、でもワタシ頑張った」と、自分を誇りに思えるようになってくれたら、そりゃあパパもう大喜びよ。
「やれば、出来る」ではまだまだ甘い。
チャレンジして失敗して、それでも「でも、またやってみよう。面白かったし」と、思えるような人になってくれたらイイなと願う。
娘たちばかり頑張らせても良くない。パパも頑張らないと。
ちょっと今のウチからまた大葉採りに行って来ようかな。