過去の意味
2016年9月12日(月)
夜中、次女は何度もうなされて目を覚ます。カミサンは帰省中、なのでほぼ初めて次女と二人で寝たのだが、こんなに寝相悪いとは・・・。よく寝ぼけているというのは知っていたが、ママが居ないので余計に不安に陥っているようだった。
案の定、目覚まし時計していたのに朝寝坊。ギリギリ間に合って、ちょっとだけ一緒に歩いて登校。道中はお互い何の会話も無い。三女も機嫌が悪く、「ばあちゃんと行くし」と保育園にはオフクロが送って行ってくれた。
カミサンいないのでお店は臨時休業。ご迷惑おかけいたしました。
お店は休みでも仕込みやお掃除など。
夕方、次女をお迎えに行き、それからピアノのお稽古。その間に三女を迎えに行って、また次女を迎えに行って。店が営業していないってだけで、バタバタはする。
夕方カミサンが帰ってきたが、疲れていたのかすぐに寝た。
金融の勉強。
ちょっとしたズレで地獄へ落ちる。平穏無事に生きてるようで、誰もがみんな綱渡り。2016年9月13日(火)
通常営業に戻った。が、今朝も次女は遅刻ギリギリ。俺はなんとか起きれたのだが、なんだ?この疲労が抜けない感じは・・・?カミサンも全然起きれないようで、俺がコロちゃんの散歩や朝の仕込みなどをしている間に、三女は自分で起きてオフクロのところで朝ごはんを食べていた。保育園行こうよと言ったが、「今日もばあちゃんと保育園行くし」との事だった。めんどくさいが、パパのお仕事だったのに。
こんな風に疲れているような日は決まって夫婦喧嘩をしてしまう。以前よりは「建設的な」言い合いが出来ているとは思うのだが、それでも夫婦喧嘩に違いは無い。
ウチは夫婦ふたりで同じお仕事をしているわけで、「こっちは疲れているんだから」というのは通用しない。「自分が疲れている時は、相手も疲れているのよ」とカミサンに言われた時はハッとした。すまん、そのとおりだ。
ランチ終わって読書。疲労回復は読書に限る。しかも共に大好きな作家と評論家。平野啓一郎の「分人主義」には何度も慰められた。春日太一の「面白がりと危機感」はいつも俺のケツを蹴飛ばしてくれる(春日さんこそ蹴飛ばされてばかりだが)。
少し前、頼まれて書評をした。止めときゃ良かったんだが、依頼先の意を汲むようなカタチの、俺としてはあまりにデオドラントされすぎたがゆえの「臭い臭い文章」だった。
結局のところそれは世に出る事は無くなったのだが、経過はどうあれそれで良かった。
「母の強さに感謝できる一冊です〜」みたいな、例の映画CMの「めっちゃ泣きましたぁ〜」のようなアホみたいな評だった。確かに子育て世代にオススメであるのは間違いないのだが、本当のところ俺が読んで感じたのは「正義や悪なんていうのは、その瞬間の『環境』が全てであり、何年か過ぎた後に贖罪に苛まれようとも、そもそもその瞬間を生き延びてこその『善』である」という事だ。満州から母ひとりで子どもたちを連れて命からがらようやく日本へ帰り、「あ、これでようやく死ねる」と母親に思わせた時代という『環境』を、今に比べても意味が無い。正史なんて生き残った人間が作った「歴史」なんだから。
極端な話、「我が子のためなら、他人の命を奪えますか?」くらいの内容の本(母親から見た戦争、母親の『野火』)を、あまりに軽薄なモノにしてしまうトコロだった。どうせ書くなら、なぜ『国家の品格』が生まれたか?についても書きたかったし、これで良かった。
『マチネの終わりに』は過去に意味をつけられた二人の話、『鬼才 五社英雄の生涯』は「チカラづくで」過去を作った男の話。ともに実際のモデルがいるのだが、しかし共通点は「過去」ではなく「嘘」ではないだろうか。他人への嘘、自分への嘘。いつか文字数無制限で思いっきり感想文を書いてみたい。
こんなに俺を喜ばせてくれる本たちに、あやうく「嘘」をつくところだった。明日はカミサンと仲良く営業しようと思います。