映画は冬休みに行く予定
2016年12月5日(月)
三女が起きた頃には、カミサンは美容院。急いで朝食を食べて、二人で様子を見に行ってから保育園へ。みんな機嫌が良くてなにより。
保育園から帰ると一緒に柿を取ったり、コロの散歩に行ったり。取り立てて何も無い「日常」。
2点に尽きる。「『今』、『ココ』に焦点を当てられるか」、そして「誰かに何か伝えるという事とは」。
以下、一切ネタバレなしで俺の感想のみ、安心してどうぞ。カウンターでは語りまくる予定だが。
「今ココに焦点を当てられるか」
大まかなあらすじは、太平洋戦争中、広島から呉へ嫁に行った「すずさん」のお話。広島という街がどうなったかは誰もが知っている事実、しかしお話はほのぼのとした童話やギャグ漫画のように進行する。
のんびりしたすずさんは悲観することが無い。物資不足や他人からの嫌がらせすらも、彼女は物事を悪く捉える事がない。お腹がすいて食べるものが無くても「じゃあこの野草をどうやって美味しく食べようかなぁ〜」という思考が彼女の標準だ。
人の悩みの多くは「過去の出来事」や「未来への不安」に過敏になる事から来るのではないかと思う。悔やんだり心配したり、「過去や未来」ばかりに気を取られ、「今」を見られない思考が「悩み」になるのでは無いかと。
常に前向き、というとなにか「頑張っている」ようで少し違う。もっと自然に「今とココ」だけにフォーカス出来れば、悩んでいても案外「アレ?そんなに悪い状況でも無いんじゃないか」と感じられる。倒産も、夢半ばで島根に帰ってきた事も事実だが、しかし今この瞬間は決して悪くない。過去の哀しみは過去の事、未来の不安は起こるかどうかもわからない。だから、今だけに集中して朗らかに暮らしていきたいと思う。
この「すずさん」に出会う前から、俺にはカミサンというイイお手本がいてくれたのだが、まだまだ彼女らのような思考が出来るところまではたどり着けていない。でも俺もいつか余計な事を考えず、自然に「今ココ」だけに集中できるようになれるはず。
そして「今だけを考えよう」と考えているのに、お話の日付は進む。誰もが知ってるあの8月6日の広島へと、「すずさん」から明るさを奪いながら。
「誰かに何か伝えるという事とは」
現代文の試験では無い。物語は、誰もが自由に捉えれば良い。
この漫画は世にある「反戦モノ」では全く無く、あの時の「世界の片隅に」暮らす人々の日常が描かれている。ひどく悲惨な状況でも「プッ」と吹き出してしまう瞬間や、国と国が争っているのに、痴話ゲンカもあればヤキモチを妬いてしまうような「そんな事言ってる場合かよ〜」というような日常を。戦争反対!と高らかに叫ぶような事は無い。
しかし読んでいる間ずっと「頼む、頼むからここで戦争終わってくれ」と願ってしまう。そんなワケないのに無理なのに、お願いだから戦争やめてくれ、と願わずにはいられない。
社会学者の宮台真司が好きか嫌いか、正しいか正しくないかは置いておいて、彼の言うところの「人を動かせない正論など無意味」というのはよくわかる。いくら戦争は悪い事とガッコウで習ったとしても、それがココロに響いたか?体験した事がない我々には、あれは教科書の中だけの出来事で、現在だって世界中に紛争地帯があるのにそれすらテレビや新聞の中の出来事では無いか?
それが何故『この世界の片隅に』は、俺に強く戦争を憎ませるのか。
政治の正論、外交の正論、経済の正論、そんなもんじゃあ「世界の片隅」に暮らす我々には響くワケもない。戦争を憎むのは「それが市井の人々の日常を奪う」と認識し、そこで初めて「だから許せない」と感じるはずだ。
我々大人が若者に、戦争や貧困や伝染病などの問題について真剣に考えさせたいならば、我々の方から彼らに寄り添わねばならない。彼らが共感し行動に移せるような物語を語り継がねばならない。
27年前のこの島根の片隅で、オヤジは俺に「これからはタバコ吸わない方が女の子にモテるらしいぞ」と言った。これが「健康に悪いから止めろ!」で俺が納得して生涯タバコを吸わずにいられたはずは無い。オヤジは中学生の俺の価値観に寄り添ってくれたんだろう、本当に俺のカラダを気遣ったからこそ。どうすればタバコ止めるかなと真剣に考えたからこそ、こんなふざけたギャグのような事を言ってくれたんだと思う。事実、その日以来タバコを吸った事は無い。
この漫画は正論を押し付けては来ない、なのにしみじみ世界の平和を願わせさせてくれる。これこそが伝えるチカラなんだろう。
三人娘に何を伝えたいか、そしてどう伝えるか。有り難いことに俺の回りにはイイお手本がたくさんいてくれる。死んだオヤジ達やカミサン、そして「すずさん」と『この世界の片隅に』を見習って日々を送ろう。
こちらのすずさんもモチロン俺の大事なお手本。パパは君の事も本当に尊敬しているよ。
なお、映画はもっと凄いらしいぞ。