弁当論
2024年6月14日(金)
昨夜は飲みすぎた。カミサンと次女とおしゃべりしてると、嬉しくていつも飲みすぎてしまう。
朝、5時。
唐揚げとピーマンとシラスの和え物が、なぜか既に出来ていた。それを弁当箱に詰めただけ。夜中のうちに自分で仕込んでいたらしいが、酔っ払っていて全然覚えていない。
でも助かった。ありがとう、昨日の俺。
その後、最終回までに何とか追いついてやろうと『アンチヒーロー』を観ていると、三女がキッチンに降りてきておもむろにキュウリやハムを切り始める。そうか、今日は三女も弁当が要るんだった。
確か昨夜の晩ご飯の時、三女は「明日のお弁当は自分で作る」って言っていた。ような気がする。
何一つ手助けする事なく、全て自分でやっていく三女。
とても上手だ、なんせ楽しそうで良い。作った錦糸卵、次女の弁当に分けてもくれた。
昨夜。
三女が自分でお弁当をこしらえると話している時に、次女にお前も自分で作ってみたら?と提案してみたのだが、「それはちょっと」。言葉は控えめだが、強めの意思で拒否された。
だったら明日の次女の弁当、三女に一緒に作ってもらったらイイわ。三女も「うん、作ってあげるよ」。
しかし次女は「いやぁ〜、それもちょっと」。
お前、ね。
生きていく上で、色々と「不必要な感情」というモノがある。
「差別」や「偏見」などは言うまでもなくお前の感情からは消し去らなければならないが、人間というのは、知らず知らずのうちにそんな感情を持ってしまう。
定期的に己を振り返り、「アレ?さっきの良くなかったかも」と気づき、もしも誰かを傷つけてしまったと思ったならばすぐに、「さっきはごめんなさい」と言えるような人間にならねばならない。そこはわかってくれると思う。
そして、同じく不必要なのが「めんどくさい」だ。
「めんどくさい」は本当に人生の邪魔。
やらなければならないタスクとわかっていても、「ちょっとダルいな、面倒だな」と思う時があるだろう。やった方がイイとわかっていても、最初の一歩が出ない時。
非常によくわかる。
それはパパも同じだし、スタッフえっちゃんもずっと「ジムに行かなきゃ…」とか言ってる。今日も言ってたし、去年も言ってた。あの人、知り合ってからずっと言ってるかも。
とにかく、去年からジムに行けばイイのに、でも行けないのが人間というものだ。
理想は「めんどくさい」の感情の前に動いてしまう事。
「めんd」くらいで、もう行動してしまうのがパパのオススメ。
動き始めたらもうやるしかないし、それに、実際の行動よりも「あ〜、やらなきゃならないに、めんどくさいな〜」とマイナスの思考こそが「ダルい」のだ。
タスクそのものよりも、実は「やるべき事をやっていない自分」にこそダルいと感じているのだ。
だから、「あ!『ダルい』が来る!」と思ったら、その瞬間に動いてしまえばダルさは来ない。「めんどくさい」と正面で戦わず、先に殺す。
…なんてハイボール片手に、俺こそがまさに「ダルいオッサン」となって喋っていたのだが、
次女は「違うのよ。そういう事じゃない」。
次女は「ワタシは、お昼ご飯は絶対に美味しいモノが食べたいの。めんどくさいとか、そういう事じゃない」。
「ワタシはお昼には、絶対にパパとママのお弁当が食べたいの」
「すーちゃん(三女)は、まだわかってない。絶対にパパとママの弁当が美味いんだから!」
「学校で、ワタシの弁当がイチバン美味いの!」
まぁ、そんな風に言われましたらね…。
そりゃあワタクシ達も嫌な気もしませんし、次女も朝はゆっくり寝ててくれてイイと思いますしね。むしろヤル気も出ちゃいますしね。
というわけで、三女は自分の分のお弁当を完成。
一切の手助け無しで、よくぞここまで頑張った。
お素麺を湯がき、一口サイズにフォークで巻いて、ハムを切り、錦糸卵も自分でこさえた。ミニオムライスも上手い事やってるじゃないの。すごいよ。
このお弁当に俺の味玉が採用されてるの、嬉しいね。
ゆっくり起きて来た次女も、目を細めながら三女のお弁当作りを眺めていた。優雅にアイスカフェラテ飲みながら。俺に作らせたアイスカフェラテを。
昨夜からずっとイイ時間だった。最期の時、今日の映像思い出したいなと思うほどに楽しかった。
お弁当というのは、作るのも食べるのも楽しいモノだな。
お店的には「ランチは大忙し、夜は大ヒマ」という、非常にバランスのとれた営業でございました。そう思うしかない。