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2021-12-20

個人的所感

2021年12月20日(月)

午前3時起床。

べ、別にそのために起きたってワケじゃないけどせっかく起きたんだから『M-1』を視聴。

 

俺の事前予想(というか希望)では、「もも」か「モグライダー」が行くのではないかな〜と思われたが全く外れ。優勝は「錦鯉」。

錦鯉。

 

今日のランチはクリエイティブSさんが登板の日だったのだが、「昨日のM-1観ました〜?ワタシ、なんだか泣いちゃって〜!子供らも朝から『こ〜んにちわ〜!』って言ってますよ!」と勝手口からハイテンション出勤。

さほどお笑いに興味のないSさんやそのキッズまでも泣かせ笑わせられるのか、錦鯉。

 

予想に関しては、あまりにも俺がマヌケ。

あの時の田岡の気持ちがよくわかる。がんばってきた2人なんだ、侮ってはいけなかった・・・

2月の座王でも、11月のゴッドタンでも、鬼のような強さを見せていたではないかツッコミの渡辺隆は・・・

とにかく完全にノーマークであった。

 

しかし、そう思うにも俺なりのM-1感というものがある。

 

「M-1」というのは、花道であり「処刑台」。

優勝すれば確かに人生が変わる。

が、負け続けて出場制限の年齢に達すれば「ここまでよく頑張った。次の仕事でそれを活かせよ」と、お笑いの世界から足を洗うキッカケを与える場として島田紳助なりの優しさで作られたのが「M-1」なのである。自分が誘った竜介について思うところがあったのだろうと思うのだが、それはもう詮索すべきではない。

 

俺たちがテレビで観られるのは、敗者復活戦から(今はもうネットで3回戦から観る事ができる)だが、実際は1回戦を突破出来ない芸人も山ほどいる。というか、ほとんどがそう。錦鯉なんて、もうバンバンにメディアに露出してるんだから、あの「おバカ」はちゃんとした「芸」なのだ。

「M-1」とは、そんな錦鯉とは力量も経験値も違うのに、でも夢を諦められない1回戦を勝てないような芸人たちを、社会に戻して普通に暮らしていけるように介錯してやる場所だったはず。

 

が、そんな「M-1」の成り立ちを、ついに今年「芸人の熱」が乗り越えて行ってしまった。

「売れなくても、なんなら一生、ずっとこのままでもイイんです。お笑いが好きなんです、続けさせてください!」

50歳のまさのりさんと43歳の渡辺隆が、日本最高峰のお笑いの舞台へ進んでしまった。

 

ひたすら「バカだなぁ〜」と大笑いしていた錦鯉の漫才のラスト。

お爺さんになってしまったまさのりさんを渡辺隆が寝かしつけ、そして最後に「ライフ・イズ・ビューティフル!」って・・・。

そんな、そんな締め方あるかよ。ここまでのお笑い人生を全肯定して、それで優勝されちゃったら、食うや食わずの芸人が、みんな「お笑い」を諦められなくなっちゃうよ。

 

今回の「M-1」を島田紳助はどう観たのだろうか。

紳助の優しさを、「熱」が追い越していく。

芸人になりきれなかった者を救うつもりで作った企画が、芸人をより地獄へと歩ませる。

しかし、それもまた人生。

 

「M-1」を「食文化」に置き換えれば、俺はとっくに降りてしまった。

神戸時代にフレンチに燃えソムリエに励んだが、今はもう、掃いて捨てるほどいるただの自営業者。

俺の「熱」は、もうくすぶる事すらない。

お笑い観て、映画観て、「ほどほどの料理」出して。・・・そうやって安全地帯にいるだけで人生が過ぎていくのか。

 

 

観終わってから長女のお弁当作り。

 

それから朝食も出来上がったころ。

次女が1番に起きてきて、「パパ!錦鯉の観た!?」「森の中へ逃げ込んだ!のところ、ツッコミすごくなかった?」、朝の挨拶として100点と言わざるを得ん。

 

俺は降りたが、次世代は育っているかもしれん。

「ワタシ、取り柄って無いし」という次女だが、なかなか良いアンテナがあるじゃないか。

あれがわかるってのは、人に優しいからこそだ。特技や才能というのは、他人に評価されたり換金化されたりする事ではない。取り柄に人生を頼るな。

 

50歳まで好きな事をやってイイと証明されたんだ。得だの利益だの言わないで、ひたすら自分のスキを探す人生をおくりたまえ。

 

ライフ・イズ・ビューティフル。

 

 

 


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