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2020-07-29

本を読む喜び

2020年7月29日(水)

火傷はジンジンするしノンアルコールだしで、全然寝れない深夜3時。

あまりにもカミサンのお手伝いが出来ていないので、明日の朝こそは絶対に朝食作りだけは遂行したい。と、そんな思いがプレッシャーになり、余計に眠気は飛んでいく。

 

朝。なんとか朝食作りに成功。相変わらずのホットサンドメーカー頼りだが、やりきった。世間のお母さま方、ほんとお疲れ様です。

 

今日はアルバイトのえっちゃんは早出。俺が仕込みに役に立たないので、早めに来てもらってお仕事してもらった。えっちゃんありがとう。

 

ランチはけっこうな忙しさだったところに、テイクアウトのご注文も重なり大入り。本日もありがとうございました。

 

ランチ後、今日で3日連続の「個人懇談」。

一昨日は次女、昨日は三女。そして本日は高校で長女の担任の先生とお話。

 

次女の時は「・・・今年はホラ!あのコロナとかありましたしね!だからその〜、みんなそんな感じですよ、お父さん!」

三女の時は「すーちゃんは非常に頑張っておられます!だから全然心配いりません!お父さん、大丈夫です!」

・・・なんで先生方は俺を「慰める」のかな?別に三女も次女も、俺にとっては超サイコーのGood Girls &赤いタンバリンなんですけど?

 

まぁ、数字が数字だし(テストの点)、まわりはどちらも「お母さん」が来てらっしゃるところに父親が来たもんだから、ちょっとはピリっとしたんだろうか。「学校に対してなにかございますか?」と訊かれたが、まぁ特には御座いません。

 

ただ、「読書ノート」という宿題については少々否定的に思っていると伝えた。

 

「本を『何冊』読みましたか?」

自分の読んだ本を記録して提出する宿題があるのだが、これが、読んだ本の『冊数の多さ』で評価されるという。

 

評価される側は、その基準で行動する。

そんなもんは小学生だろうが社会人だろうが同じだわな。先生や親や上司や顧客がどう思うか?「いや、自分はそんなものとは無関係〜」という人でさえも、今はSNSがあったりしてしまい、常にまわりからの「評価」と隣り合わせで生きている。評価がほしいのか、評価に追われているのか?

 

しかしどちらにせよ、本は「何冊読んだか?」では無い。

 

俺もたまに「ひと月にどのくらい本を読むんですか?」と訊かれる事があるが、読んだ数量など全く無意味だと思っている。

訊く人にしたらなにか基準がほしいんだろうけど、こっちとしては「今月は全然本を読み終わってないな〜」という時の方が「幸せ」なんだから。

「『まだまだ読み終わりたくない!』と思える経験」を味わう事こそが読書の最高の喜びよ。

 

右手に読んだページ、左手に未読のページ。

左手につまんだページの厚みを見て、「よし、まだまだ読めるな」「もっと読みたいのに!まだ終わるな!」。これこそがエキサイティングな読書体験、本はそもそも「読み終わりたくない!」って時こそ幸せだ。冊数なんて行って無い時の方がイイ読書してる時があるのはそういう事で。

 

それなのに「たくさん本を読みなさい。そうすればほめてあげます」となれば、読書そのものが面白いか面白くないかは問題ではなくなる。

「面白くないけど、とりあえずこの文字が並んでるのを読めばイイんでしょ?」って、そりゃ評価される側はみんなそうなるし、さてそういう評価のもとで学校生活送る子供らが、果たして読書を好きになるのだろうか。

 

本が好きになるかどうか、それはそのキッズたちの自由だ。ただ、「文章は嫌い!」となるような指導は控えてほしい。喜びこそを教えてやってほしい。

と、そんな旨をあくまでソフトにやんわりお伝えした。

 

夜、お仕事終わりに明日の朝食の仕込み。

「ぱぁぱ〜、ヤケド大丈夫〜?明日の朝はホットケーキがイイんだけど〜」と三女。

じゃあ一緒に仕込みしようか。バナナをたっぷりと練り込んだホットケーキのネタが完成。朝、これをパパがちゃんと焼いておきますよ。

 

ちなみに長女の方の個人懇談は、先生が「全く何も言う事がありません」だと。

そんなら呼ぶなや〜〜〜〜〜〜〜!!!

 

 


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